往診夜話

 今でもある地域を車で通ると、今から20年以上前、往診していた患家を思い出すことがよくある。この頃は医師と患者、それに家族が一体となった医療をしていたように思える。この頃の私は往診は全て医療行為と考えていた。しかし、往診を受ける患者家には必ず誰か介護をする人が必要であった。訪問入浴サービスが始まる以前、当院では子供の家庭用プールを購入して、私が他の家を往診している間に、別の看護婦のグループ3人に入浴が必要となった患者の清拭を行わせていた。もちろん訪問看護制度もない。看護婦が行っただけでは診療費は請求できない、家族に請求することも出来ない。全くのサービスであった。社会福祉協議会が訪問入浴サービスをしてくれるようになった時に最も喜んだのは当院の看護婦達であった。あるとき医師と患者の関係がどうしてこんなに、ぎすぎすしてしまったのだろうと思うようになった事例があった。特別養護老人ホームが各市町村に出来始めた頃の事である。

 あの日、往診に出かけたが、患家に鍵がかかっていて入ることが出来なかった。患者は一人暮らしだが、まだ動くことは出来たので、それほど重症とは考えていなかった。 しかし家の中で倒れてでもいれば大変である。とにかく近所の人に立ち会ってもらって鍵を開けてもらい中に入ったが、患者はいなかった。患者が何の連絡なしに姿を消したので、一応市役所に連絡しておいたのだ。市役所から連絡があったのは数日してからだった。ある介護施設に入所していたのである。どのような経緯で入所したのか聞くこともならず、介護施設からの連絡もなく、薬も誰からもらっているかも判からなかった。 忙しい中、片道30分はかかる往診をしていたのに、患者が何の相談もなく入所をしてしまったという失望感を強く持った事例で、今でも忘れられない。この頃より患者の中には、点の医療よりも面の介護を求めている人が多いことを念頭に置くようになった。

 平成12年介護保険制度が発足し、年々介護施設が増加するにつれ、往診を希望する家庭が減少し、一昨年10年以上往診をしていた患者が亡くなってから、一人も在宅医療を希望する家族が無くなってしまった。時代は全く変わってしまったと言ってよい。いくつかの原因が考えられる。

  • 超高齢化社会の到来
  • 核家族化で家庭に介護力が無くなった2世代に家庭でも、昼間の介護力はない。
  • 医療費負担増、嘗て高齢者の医療費自己負担は無かった。現在は生活保護家庭をのぞき、最低1割の負担が求められる。
  • 年金暮らしの高齢者が増加、年金が少ないため、通院医療費の一部負担すら困難な人が多くなった。
  • 介護施設、有料老人ホームの増加
  • ホームヘルパー制度の充実。現在点の医療よりも面の介護が必要な患者が多くなった。嘗て往診が必要な患者がヘルパーに連れられて来院することが多くなった。

 最近では通院が大変そうな患者を診ても、往診してあげましょうかと言い出せなくなってしまった。多くの家庭は往診よりも施設入所を選ぶ時代になってしまった。往診してもらうには誰か一人介護に残さなければならない。核家族ではそれも出来ない。親の年金にいくらかプラスすれば施設に預けることが出来る。私はこの施設入所を否定しているわけではない。実際私の親も寝たきりに近くなったとき、施設に預けている。妻を亡くしたあと家には介護力が無くなった。完備された施設で、看護師や介護士に預けておくほうが安心である。
国は在宅医療推進を叫んでいるが、恐らく世の中はこれと全く逆の方向に進んでいる。現在の社会情勢から在宅医療は絵に描いた餅に等しく、全く実現性の無い政策であろう。
今は往診のことを在宅医療と呼んでいる。往診時代、それは今から20年も昔、心温まるような往診事例を何例も経験している。

症例1

この往診は私にとって誠に恐ろしい事例であった。患者は間脳出血で植物人間の状態(紹介状にはこう書いてあった)、拘縮が強く胎児状。病院で約半年を過ごし、回復の望みはないとのことで退院した。奥さんがその介護に当たり施設に入所しないでいた。膀胱に留置カテーテルが入っていた事から当院で往診することとなった。この患者は拘縮が強いためカテーテル交換は困難を極めた。交換の時、いつも「アー、ウー」という声を発するだけで意思疎通は全く出来ないと考えていた。しかし3ヶ月程経過したある日のこと、患者の瞼が何か意思表示をしているように思えた。そこで患者にこう話しかけた。「私の言っている言葉が分かりますか? もし分かるようなら瞼を2回パチパチさせて下さい」 すると驚いたことに、瞼を言われた通り2回パチパチさせたではないか!「私の声が聞こえるんですね」瞼をパチパチ「奥さんが分かりますか」瞼をパチパチこの様子を見ていた奥さんが突然大きな声で患者にすがりついた。「あなた、ごめんなさい。今まであなたが植物人間だと思っていたんで、いつもひどいことを言ったでしょう。 ごめんなさい。ごめんなさい。」私も看護婦もこのときだけは呆然としてこの光景を見ていた。同時にぞーっとした。 私たちの話も全て聞いていたのだと。全て分かっていたんだと。患者にとって、この状態はまさに生き地獄だったのではないだろうか。驚いたことに患者は字も理解できた。 次のとき往診に行くと状況は一変していた。患者の横にひらがなの一覧表が置いてあり、奥さんが文字を指差すと目で合図を送れるようになっていた。カテーテル交換のとき大きな声も出さなくなった。これが私たちに対する感謝の気持ちであることも理解できた。文字盤である程度の意思疎通が可能になっていた。子供たちも常に患者の周りに集まってきた。暖かい家庭なんだと肌で感じられた。それから半年後患者は肺炎でなくなった。葬儀が終わって挨拶に来た奥さんがしみじみ言った。「あの時先生が主人の意識があるのを気がついてくれたおかげで、私はこの半年主人と話も出来、最後を看取ることが出来ました。安心してあの世で、もう一度主人に会うことが出来ます」 このことがあって以後患者がどんな状態であっても、常に、ことによると皆分かっているのかもという考えから、滅多なことは言わないようになった。 どんな状態の患者に対しても丁寧語で話しかけ、家族と話すときも患者の枕元ではしないようにしている。ことによると全ての認知症の人は認知症の振りをしているのかも知れない。 そのほうが面倒くさくないからかも知れない。考えて見たところでどうにもなるわけでない。若くなるわけでもない。意見をしてみても始まらない。ボケた振りをしているのが一番楽な生き方と、脳の中ではもうひとつの意識がそう決めて、あとひとつの自分は外に出さないようにしているのではないだろうか。まあ私の家系は長生きをするが皆ボケる傾向があるので、そのうち分かるだろうが。まだ脳の科学は全てを解明しているわけではない。

症例2

往診時代の事例は思い出が多い。特に癌の末期は若い人も多く最後まで意識があるため壮絶な末期を迎えることもある。 この事例は今では考えられない往診回数の多さで覚えている。1ヶ月の往診回数が30回を超え、レセプトに詳細な注書きを行い提出したので査定されなかったことでも記憶が強い。 47歳、胃がんの再発で第12胸椎の圧迫骨折を起こし、尿閉となり留置されているため当院に往診が依頼された。患者の疼痛が強いがモルヒネはがんセンターが投与してくれるとの事だった、手に負えなくなったら入院させてくれるとの約束だった。しかし患者は再婚してまだ何年かしか経っていなかった。どんなに疼痛が強くとも再入院を頑として拒んだ。背中に褥瘡が出来、栄養状態の悪化と共に徐々に拡大し始め背中から仙骨部まで全て筋肉が露出するような褥瘡の状態になっても患者は入院しようとは言わなかった。 浸出液が多いため毎日ガーゼ交換の必要があり、いつも看護婦2名を先行させガーゼ交換を行っていた。交換には最低30分はかかった。ある日、午前中出血が強いとの連絡で看護婦2名を先行させ、午後私が往診しようと考えていたが、看護婦連がいつまで経っても帰ってこない、医院にはあと2人の看護婦がいたが、患者が多くてんてこ舞いの状態だった、お昼になっても帰ってこないので電話をしたところ、ガーゼを剥がしたところ出血が強くなり必死に圧迫して止めようとしていたとのことだった。 私も他の看護婦2人と共に往診した。筋肉からの出血で止血の方法がないためただ圧迫しているより他無かった。もうDICをおこしていると考え輸血を行いその日当院のスタッフが全員引き上げたのは夕方6時を回っていた。 この日から恐怖のガーゼ交換が続き、看護婦も医者が同伴しないと動かなくなっていた。1日3回以上往診することはあっても、レセプトがどうなるか心配で1日2回の請求が何日かあっただけである。片道8キロはあるので往復だけでも最低40分はかかった。ただこの頃は往診の距離規定があり、又時間外も別に請求できたので1ヶ月の請求は30万を越えてしまった。この状態が1ヶ月続き、皆へとへとであった。私たちより大変だったのは結婚してまだ間もない奥さんであったろう。よくあの状態を我慢できるものだと、みな関心していた。 奥さんが投げ出せば患者の意思がどんなに強くとも入院させなくてはならなかったろう。がんセンターの先生も心配して時々電話をかけてきた。状態を話すと「すまん」というだけだった。亡くなったのはやはり真夜中。その日は朝から血圧が60位だったので夜中にもう一度往診したところすでに呼吸状態が悪化していた。朝モルヒネの錠剤を服用した後眼も開かず、疼痛も訴えないということだった。 30分後患者は亡くなった。壮絶な戦いのあとは静かな最後だった。褥瘡の死後処置を奥さんに任せるわけには行かないと看護婦連は考えていたようで、連絡をするとすぐ2人が駆けつけてきた。処置が終わるまで私と奥さんは隣の部屋で待っていた。「やっと終わりましたね。ご苦労様でした」こんな声をかけたのはこの家族だけであった。本当に奥さんは良くがんばった。それにうちの看護婦たちも本当に良くやってくれた。

症例3

ついでにもう1例、当院が院外処方箋を発行するようになった平成6年の事。 この人は昭和40年頃、まだがんセンター創設前に食道癌で食道全摘、食道外瘻増設をされたおばあちゃんである。鎖骨上窩に上部食道が開口していて、下部は大きな胃瘻が設けられていて、ここに径約2cmの太いゴムチューブが挿入されている。食事をするときには、上部開口部とこの胃瘻のチューブを別のゴム管で連結させる。患者が80歳を超え通院が困難になったので往診を頼むとのことだった。ゴム管の取り扱いには慣れている泌尿器科医だが、こんなゴム管ははじめて見る。まずこのゴム管を当院で取り寄せられるかどうかだった。その相談をすると、やはりゴム管は特注品で、がんセンターの注文だから製造メーカーが特別に造ってくれているものであった。 胃瘻のチューブは、がんセンターが供給してくれることになったので、往診を引き受けた。しかし、このチューブの交換が慣れるまで大変で、チューブ先端のバルーン状の膨らみをうまく折りたたんで、抜去出来るようになるまで数回の試行錯誤が必要だった。ちょうどこの頃、医薬分業をし、往診患者の投薬で連携出来た薬剤師が、服薬をどのようにしているのか見たいとの事で、同伴してこの交換風景を見せたところ、さすが驚いた様で、この日は一日食事が喉を通らなかったとのことだった。この患者は術後約25年間、この状態で、畑仕事までしていたというのだからなお驚きだった。 この間癌は再発することなく、老衰が進行していった。 あるとき患者の様子がおかしいとの連絡があり往診すると、血圧は60くらいしかなく意識も無かった。ようやく血管を確保して、「今晩が山でしょう。合わせる人があったら連絡してください」といって帰ってきた。その晩は往診の準備をして待っていたが何の連絡も無かった。翌朝電話をすると、「先生、おばあちゃんの意識が戻ったんです」首をかしげながら往診をすると、確かに血圧も100位まで回復し、意識も戻っていた。大勢の家族が集まっていた。もう一日点滴をして、胃瘻から水分と栄養の補給を行うよう指示して帰った。驚いたことにこの翌日にはおばあちゃんは完全に元気になっていた。予測は外れたが元気になったことはいいことだ。このことがあって数ヵ月後、又同じ状態になった。そして又「今晩が山でしょう。合わせる人があったら連絡してください」と言って帰ったが、中々どうして、おばあちゃんは3日後には又元気を取り戻した。 「元気になってよかった、よかった」と言って親戚は又散っていったとのこと。 1ヶ月後又血圧が60以下になって意識がなくなった。血管も萎縮してしまい確保がやっとだった。今度は絶対だめだろうと思って又「今晩が山でしょう。合わせる人があったら連絡してください」と話した。その晩やはり呼吸が止まったとの連絡を受け、飛んでいった。だが予想したとおり親族は集まっていなかった。娘と孫娘だけに見守られた静かな死であった。「親戚の方々にご迷惑をおかけしました。とお詫びを申しておいて下さい。とんだ狼少年振りをしてしまいました」「いえ、親戚は皆、元気になったおばあちゃんに何回か合えたから、今度は亡くなってからの連絡してくれればいいと言われていましたので、今回は連絡しなかったんです」 昔の往診は必ず死で終わった。人生の終焉、これは悲劇である。医者は常にこの悲劇と向き合わなければならない。この時私たちは家族に感謝されることが最もうれしい。しかし患者は医者をどう見ているのであろうか。