端渓神話(2.端渓硯伝説と神話)

2端渓硯伝説と神話

はじめに

 神話は説話形式に語り伝えられて形成される、ストーリ性のある物語である。端渓の諸説には神は存在しないが、水岩は神の如く信じられて、1000年この方、多くの人が神を称えるかの如き説話を残している。
しかし人は神話の中に歴史的な事実が無いか、必死に捜し求める。説話として語り伝えられてきたことが、遺跡や古墳の発掘で突然歴史の中に組み込まれて姿を消すことも多くある。また、根拠も無く絶対的に真実だと考えられてきた神話が突然崩壊することもある。あたかも「‥‥‥の安全神話」の如く。
 北宋末から明末まで約500年間、水岩の開坑は無かったにもかかわらず、水岩は生き続けた。この説話は生き続けて人々の記憶の中にあった。あたかも神話の如くに。人々はいつか又再開されればあの美麗な硯石にめぐり合える、と信じていた。清初大西洞が開かれると、人々の期待通り、多くの、美麗な硯が世に現れた。神話通りの現実に、多くの文人が神を称える文を発表した。
それから清末まで約250年間、水岩は幾たびか開坑され、世に良硯を送り出し、多くの文人を魅了した。 しかし清末民初の混乱で、再び80年間深い眠りに就く。
1972年中国や日本の国民の多くが待ち望んでいた、水岩が再開された。しかし今回の開坑は、歴史的事実の解明とか、硯石の地質学的、鉱物学的解明にも重点が置かれたようだ。 そして、開坑してたった28年、水岩は又閉じられた。水岩だけでなく端渓諸坑は全て閉鎖された。歴史的、科学的解明を待たずに。
 この事が果たして「水岩神話の崩壊」を意味するのか、「水岩神話の永久存続」を意味するのか全く分からない。
恐らく今後、数十年、いや数百年は再開されることは無く、水岩や大西洞は再び神話化されて人々の記憶の中に残されていくことだけは確かなようだ。

下巌と水岩(唐代、宋代、明代の硯)

 呉蘭修は下巌と水岩別坑説であるかの如くに考えられているようだが、私は、呉蘭修は、ただ水岩という坑は万暦(1573~1620年)以後開かれた坑に対して付けられた名である、と言っているに過ぎない、と考えている。呉蘭修は米芇の硯史や、南宋無名氏の端渓硯誌を読んでいる。下巌の延長上に水岩や大西洞がある事は知っている。この坑は古くから存在していたのである。故に老坑とも呼ばれている。この事を見ても、この坑が唐初に発見されたことも知っていたはずである。米芇の硯史に拠れば、下巌は北宋の治平中(1064~1067年)は採掘していた。この時の貢硯は洞を穿ちて深く入る。四時を論ぜず、皆水に浸れり。水を取ること月余にしてまさに石に及んでいた。しかしこの時、下巌は既に深く、工人費す所多く、硯直補ぎなわず。故に力(つと)むるも能く取るなし。近年復た開くあるなし。と。
 南宋の紹興の間(1131~1162年)に書かれた『端渓硯誌』には下巌北壁、皆水の浸す所となり瀰漫湧溢して、下流、渓となる、巌中、歳久しくして崩摧し、石屑翳塞して、積水屈曲浅深、人の測るなき所なり。これをもって石工復び取る能わず。今世にある所の下巌硯は、唐、五季、国初の物なり。としている。更に、
「蘭修按ずるに、周氏の硯坑志に、治平坑を土人又称して坑仔巌という。これに拠れば坑仔巌即ち宋の下巌なり。宋の下巌、崇観(1102~1110)以前より塞がる。今の水岩は万暦(1573~1620年)に開く。且つその地、相越ゆること里許りなり。譜を作る者皆混じて一となす。宣(むべ)なり、其の言の狡猾なること」と言っている。
最近『端渓硯石産地の地層と古文献「懐瑞続硯譜」』なる論文が地学雑誌に掲載された。著者は地質学の権威、東北大名誉教授、鈴木舜一。地質学に関しては、自分で行った調査でないため、中国が行った調査報告を日本語で専門用語を交えて解説しているので劉演良の報告よりも理解しやすい。しかし、この論文も自分で、実際、地質学調査を行ったわけではないので、『新説端渓硯』の内容を越えるものではない。この著者も呉蘭修を下巌、水岩別坑説論者ととしている。次にこの論文では、地方政府が刊行した端渓硯の記述を報告しているが、この崇禎刊の肇慶府志に関しては中国にも残っていない稀書で、日本の国立国会図書館だけで見られる本らしい。この本は明末、明の官吏によって書かれたため、清代にこの著者、区懐続の名前が削除されてしまったため、呉蘭修の目には入らなかった説のようだ。 万暦28年に水岩が開採され、この書の序文には崇禎6年とあり、7年後の崇禎13年に刊行されている書で、水岩開坑から30年しかたっていない。ごの記録は明代の数少ない端渓硯の史料として、学術価値が高いとされる。
『懐瑞続硯譜』は崇禎13年(1640年)刊行の肇慶府志巻10にある。原本は70行1180字の文である。この文中に記載されている斧柯山西北部の硯坑の名称は、下岩、中岩、上岩、朝天岩、屏風岩、竜岩である。この文はこれらの坑だけで、この頃採取されていたという意味なのであろうか。明代には永楽、宣徳の時、中使を遣わして採取し、万暦の時は、中使李鳳が採掘を行った。皆勅命を受け硯坑を開閉し、崖石に刻んでその歳月を記している。下岩は常に水の下にあり、夏期には硯石を採取することが出来ず、冬でも坑道には深く水が溜まっている。万暦の開採の時には、はねつるべを置いて次々と水をくみ上げて坑内の水が涸れたが、いわゆる、宋硯の下岩での採掘場所を指し示すことが出来なかった。この採掘状況は呉蘭修も承知していて、水岩の永楽以降開採論は全く違った論点で述べられていると考えて良い。 次に北壁、南壁の記述に驚く記述がある。
「下岩の水面から上に出ている所の南北壁を皆中岩と呼んでいる。旧志(嘉靖刊肇慶府志)では北壁の石を上質としている。北壁は曲がりくねった険しい路が数里のところにあるが、南壁は甚だ近い所にある」
「北壁には石質の良い所が数か所あり、土地の人が場所を選んで穴を掘り採石している。……..硯石はひび割れや虫食いが多く、時に醇質、声色、気韻、眼ともに下岩と差異のない者がある。………南壁の石は堅潤で北壁に類するが、割れ目や沙線が多い。清潤で気韻があり、子供の肌のようである。用い始めは良いが、3~4年で鋒鋩が退き、墨が滑って発墨しなくなるので細かい砥石をかける必要がある。万暦の中使が採ったのはこの石である」
この北壁は坑仔岩を指すものと考えられ、南壁が水岩を指している。恐らく北壁の本坑は崩落して再開不能だった為、朝廷が採石権を放棄したあと、土地の人が本坑の脇に新しい坑道を掘って採取していたものと考えられる。
呉蘭修は「宋以前に開かれた硯坑のうち、今その処が分かるのは、いわゆる治平坑だけである。この坑は岩盤が崩れ、水が多く、久しく塞がっており再開が不能であるが、その傍らにある坑仔岩では今も採取している」
崇禎刊肇慶府志に収められている嘉靖40年(1561年)刊肇慶府志の硯の記事に拠れば、永楽、宣徳の開採では良質な石が採れなかったようで、「永楽(1404年)、宣徳中(1426~1435年)に内侍(宦官)を遣わして採取したが、莫大な費用を要するだけでなく、採った石も小さく砕けていて、硯に適しない。ついに岩穴を封塞して、今に至る」とある。
憲宗の成化年間(1465~1487)にも開採されたらしいが詳細は分からない。
明代初期の水岩(下巌の延長上の坑道)からは良質な石が産出されてはいないにも関わらず、端渓の人々は水岩からは必ず良質な石が出ると確信していたようである。この確信こそが神話の実体である。この神話無くして、どうして大金を出して採掘に挑戦する人が居るのだろうか。もし水が引けなければ採石が出来ない、たとえ硯石に辿りつけたとしても、良石が取れるかどうか分からない、賭けのような事業を遂行する人が果たしているのだろうか。神話は黄岡村民の夢であった。
神宗の万暦27年(1599年)、この頃文禄、慶長の役で朝鮮半島に出兵を余儀なくされ、明王朝に翳りが出てきている時、内監官太監李鳳が蛋人(真珠採りの水夫)を使って水岩を採石したが、この年は坑内に落ちている石を拾い集めたに止まった。翌年1600年勅を奉じて周到な準備の下で、7月14日より翌年1月28日の間開採掘した。呉蘭修はこの時を水岩開採の年としている。この開坑以降、良質な硯石が産出されるようになったらしい。次いで、毅宗の崇禎年間(1628~1644年)に両広総督の熊文燦が蘇萬邦に指揮させて中夜ひそかに採石、とあるのは、朝廷の勅命無く、総督が独断で坑を開いたと言う意味か。いずれにしても明末1600年以降屈大均が『端石』を起稿(1672年)するまでに約70年、水岩の開採は記録に残っていないものを含めて、10回位は開採されていると考えなければならないが、この間の端渓に関する記述はこの懐瑞続硯譜のほかには、清代初期の屈大均の『端石』、朱彝尊の『説硯』を参考にするより他の資料が見付からない。後二者は共に翻訳文が『訳注、端渓硯譜七種』井上研山編、中谷裕亮訳で見ることが出来る。
明代の水岩には多くの疑問がある。特に明代に水岩坑はどれくらい掘り進められたのか。東洞や小西洞で採掘されたのは本当に明代だったのか。懐瑞続硯譜は明代の端渓硯の実体を知る上で貴重な文献である事は確かである。これだけの学者の説をしても、この時代の端渓硯の実体を解明するには、まだまだ程遠いことは確かなようである。
屈大均は明代末、崇禎4年(1631年)の生まれ。1643年明朝が滅んだが、屈大均は異民族、満州族の支配する清王朝の辮髪の習を嫌い、順治7年(1650年)21才で剃髪出家する。28才から40才までの間、前後2回、清討伐の同士を求めて長期旅行に出る。1657年の水岩の開採に逢う。この時端州を訪れていた朱彝尊と会っている。生涯清朝には仕えなかったが、清朝の倒し難きを知り、康熙元年(1662年、33才)還俗する。康熙17年(1672年)に『端石』の稿を起こし、康熙17年の『広東新語』に収められた。明王朝が滅んで約30年しか経っていないので、明末の水岩の状況と考えてもいい文である。
屈大均の訳文を要約すると
「羚羊峡口の東に一渓が合流する。渓の長さは一里ばかり幅は丈に満たない。これが端渓である。端渓口より北行30歩(この距離から屈大均が、実際にここを訪れた事が無いことがはっきりする)、一穴が山下にあり。高さ三尺ばかり水巌口である。腹ばいになって入ること五六丈(一丈は約3.3m、即ち約20m)ここを正坑と為す。正坑を右に転ずること数丈を西坑と為し、坑の門は最も小さい。その傍らより入るを中坑と為す。正坑より右に転ずること十余丈を東坑と為す。東坑の外は西江である。」
十余丈を仮に15丈とするとここまで約45m位であろう。合計すると約65mは掘り進められていたと考えられる。この当時未だ洞という言葉が用いられていない。工人達は硯石を探りながら掘り進む。ある所で硯石が途絶えると、坑道を引き返し、途中で又硯石層を見つけて掘り進む。引き返した場所が西坑であり、東坑である。呉縄年の硯坑図より、西坑と東坑が逆になっていることが分かる。即ち明代には、清代で言うところの小西洞辺りまで掘り進められていたことが想像される。
「坑の中は水が溜まっていて、甕で水を伝えて、排水溝に注ぎ、水をくみ出したあと始めて硯石を採取する。石に三層あり上層は天花板と言い、やや粗、中層は鴝鵒眼多し、下層は沙板と言い、固くて採取出来ない。おおよそ西、中、東三坑には皆、焦葉白、火捺あり、東坑が最も美くしい。その美たるや微塵青花や蟻脚青花あり。蓋し石は細なること極まればすなわち青花あり。青花は石の青花なり。(呉蘭修この文を引用)。その他に黄竜紋、朱砂斑、金線、虫蛙、金銭火捺、翡翠等の石紋がある。」これ等石紋の良否を論じている内容は、呉蘭修もこれと同じ表現を用いて論じている。
次いでこの文は、m恐らく魚脳凍を指していると思われるが、呉蘭修も引用している有名な文なので訳文をそのまま載せておく。
「惟だ中層のみは純深秀嫩にして、一片の真気、新泉の流れんと欲するが如く、又雲霞の氤氳(いんうん=もやや霧がいっぱい立ち込めるさま)たるが如くして温柔長媛なり。是れすなわち石の髄なり。之を得れば、以って尽く諸巌の石を廃つべし。予嘗て其の一を得、名づけて水肪と云えり。其の序に云う。端石に五質有り。水質を上と為す。此れ水の質なり。水の精華の結れる所、虚にして雲と為り。実にして石と為る。人見て以って石と為し、我見て以って水と為す。故に水肪を以って之れを称す。肪は水の膏腴なり」
次の文は意味が不明で、どのように考えていいのか理解に苦しむ。
「水岩は老坑の内にあり。宋の治平中、此れに於いて硯を採る。東坡謂う所の千夫水を堰き、つるべなわを挽(ひ)きて深きに汲む。火をかごにして下し、百夫斤を運らして之を得る、初め頭洞より水坑に至るに、高きより卑(くだ)ること二里許り(?、一里は約400~500m、水坑の坑道の長さを言っているのではなさそうだ、頭洞とは治平坑即ち康子巌のことか?)魚貫して(つらなって)入る。首を上げ、腰を直(のば)すを得ず。中に軒あり、竇(あな)あり或いはまがり、或いはよじ登りて、すなわち至るを得る。猪の油を以って布を漬け燃照させ又入るを洄曲する水に沿って進む。行(みち)は東に向かう。初めて至る者を西洞となす。其の石には眼無し。又入りたるを下巌(水坑の中に下巌がある?)となず。宋に開きし所の坑にして、名付けるて康子巌(またここに康子巌が何で出て来るのか?)という者なり。‥‥‥」この文は完全に水岩と、坑仔岩へ行く道の経路が一緒になってしまった文である。即ちこの屈大均も実際水岩坑を訪れていない証拠の文である。恐らく黄岡村の住民の何人かから聞いた話しがごちゃごちゃになってしまったのであろう。
屈大均もこの辺りで黄岡村の住民の言うことに、腹を立てたのであろう。この黄岡の住民を次のように貶めた文も又有名で、呉蘭修も引用しているので紹介しよう。
「羚羊峡の西北岸に村有り。黄岡と曰う。居民は五百余家、石を以って生業と為す。其の紫石を琢する者は半ばにして白石、錦石の者半ばなり。紫石は以って硯を製し、白石、錦石は以って屏風、几、案、盤、盂の諸物を作り、歳ごとに天下に売ること万金をこゆ。性多く狡猾にして、たくみに贋の坑石を以って人を惑わし、常に重価を得。白石は、即ち西洋の諸番亦来たりて買い取る。蓋し黄岡は石に衣食す。宋より今に至るまで、山巌の利を享けること数百年なり。」
黄岡の住民の口裏はこの頃まだ統一されたものではなかったのであろう。下巌で嘗て良質の石が採れたことは確かなのであろう。しかしこの坑も掘り進むうち、水が深くなり、北宋末の米芇のいた頃には、既に採掘出来なくなっていたにも関わらず。逆にこの坑の採掘が難しいことを理由にして、稀少性故に下巌の良硯伝説が生まれ、更に神話化して、400年間生き続けることとなった。永楽、宣徳、成化の開坑では良質な硯が採れなかったにも関わらず、万暦帝は神話を信じ、開坑に踏み切った。恐らく相当な準備をして開坑したのであろう。ここで又失敗したり、良石に巡り逢わなかったら、この神話は消滅してしまったかも知れない。しかし幸い、この頃から、今まで見たことも無い、美麗な石が産出されたので、神話は又息を吹き返したと思われる。では万暦の開坑以前、黄岡の住民は何を売っていたのであろうか。下巌の石などあろうはずも無い、又まだ老坑でも良石は産出されなかった。水岩伝説はこの黄岡の村民の作った話であろう。呉蘭修が水岩は万暦以後より開くと言う説は正鵠を射ているのである。
この項の最後に呉蘭修の端渓硯史を翻訳した石川舜台の文を載せる
「訳補:世に宋端と称するもの少なからず。而して佳者は未だ曽てこれを見ず。青花、焦葉白、魚脳凍、若しくは猪肝色の精妙なる者は、全て明以降の物なり。蓋し水巌開きて佳品初めて世に出づ。其の唐宋の旧物にして宝襲すべき物は天上或いはこれ有らん。人間終に見るべからず。」即ち唐代、宋代の下巌硯は、皇室にはあるかも知れないが民間には存在しない、と言ういみ意味である。

清代の水岩大西洞

 屈大均と朱彝尊は共に明の民である。清代の初期、2人共に清朝に仕える気はなかった。。屈大均は生涯無官で通したが、朱彝尊は康熙18年(1679年)51才の時、布衣を以って(官位がないにもかかわらず)博学翰詞科に挙げられ、翰林院検討に除せられ明史の編纂に預かり功あり。とある。博学翰詞科とは清代康熙帝の時、臨時の勅命で、常設の科挙以外に、学行兼備、文章卓絶の士を選抜するために設けたもので、詩賦の試験を主として、合格者には翰林官を授けた。翰林官は翰林学士ともいい、天子の詔勅の作成を司り、そこに勤務する者は、特に優秀な学者で名誉な官といわれた。
 朱彝尊の『説硯』はわずか800余字の短文で、康熙17年、翰林院検討に除せられる以前に成った書とされている。水岩坑道の記述は無いが、採石の坑夫の多くは黄岡の村民としている。石紋に対する記述に名文が多い。水岩の石質を熬釜塗蠟に例え、又、「水岩を得れば諸山の石は廃つべし。青花と鴝鵒眼とある者を得れば、諸の品又廃つべし」の文は有名である。
 高兆の『端渓硯石考』は康熙26年(1687年)の水岩開採に遭逢し、この見聞を基にした硯説である。この年の石は30年前の石とは異なっている、と言うのである。之を石工に聞くと、その言はさまざまに異なっている。たまたま同人の屈翁山(屈大均、このころ58才)等と会う機会があり講論弁識す、とある。
 坑道は正洞、東洞、西洞があり、正洞の石が最も質が良いとしている。この頃まだ大西洞の記述は無い。水岩以外の山坑の記述が見られる。梅花坑、巌仔坑、新坑、朝天巌、古塔巌、屏風背、宣徳巌等の記述がある。まだ麻子坑は見付かっていない。
この高兆の文に、順治4年(1647年)の後は守禁罷(や)み、今(1687年)に至るまでに凡そ六たび坑を開くとしており、水岩開採史上、清初の半世紀は画期的な時期であったとされる。当時世に出た水岩石は後世に於いて史上最良の逸材であったと言われる。恐らく大西洞の硯石が産出され始めた時期と考えられている。しかし大西洞の名称が現れるのは、呉縄年の『端渓硯志』乾隆22年(1757年)の内『端渓硯坑開採図記』以降である。この書では、大西洞は開さくされること年久しく、寛大なること屋の如し。とある事から、康熙26年(1687年)頃には大西洞に達していたと考えて良さそうである。
 しかし、雍正3年(1725年)に開採に際し、広東四会の県令として立ち会った、黄任及び同時期作硯家として、老坑以外の石には刻を施さなかった事で有名な顧二娘も大西洞と言う名称を使っていない。之は呉縄年が『端渓硯志』三巻を印行する以前なので、仕方がないといえなくはない。しかし黄任は挙人であり、下級官僚で、県令(現在の町長位)として、実際に採石に立会い、黄岡村民と接する事が多かったと考えられ、しかも彼等から弾劾され、職を辞す羽目に落ち入っている人である。大西洞と言う言葉は耳にしていたはずである。
更に乾隆43年(1778年に勅撰された『西清硯譜』にも大西洞と言う坑名が使われていないのはなぜだろうか。呉縄年は『四庫全書』が勅撰される、20年も前に『端渓硯志』を刊行して、大西洞と言う坑名を使っているのである。
 『西清硯譜』は乾隆46年(1778年)に編纂されたもので、全24巻、240面が紹介されている。全ての硯の写生で、色が付けられた精緻な硯譜である。
 浅学非才にて全文を理解することは難しいが、文の始めに硯の大きさ、次に硯の種類を述べている。 これだけを参考にして硯を分類すると、巻1~巻6までは陶之属として瓦硯、甎硯、澄泥硯である。 巻7~巻21までは石之属で、多くは端渓硯である。 巻22~巻24は附録として、端渓硯以外の硯、主に歙洲硯、松花石等が記載されている。
  紹介されている硯を多い順に並べると次の如くである。
   端渓硯   133
   澄泥硯    46
   歙洲硯    24
   瓦硯       9
   松花石    7
   甎硯     5
   雘村石    5
   紅絲石    3
   駝基島石   1
   紫金石    1
   臨洮石    1
   不明     5
澄泥硯はそのほとんど、42面は宋代までの陶硯である。 清代に倣古硯が作られこの中に澄泥硯という名が附された石硯が4面ほどある。
 端渓硯の中に緑端石が4面紹介されているが、臨洮石とは区別されているようなので、臨洮石が洮河緑石ではない(写生を見る限り、現在日本で見ることの出来る、多くの洮河緑石硯ではない)とすると、清の王室には洮河緑石硯は存在していなかったのであろう。まさに、天上にあるかも知れない、と石川舜台翁が言っている硯が、ここにも無い硯なのでのである。
 端渓石の中には写生で見る限り双手硯で、裏面に眼柱が多く見られる硯はあるが、半邊山と言う坑名も見られない。宋人の燕石に例えられる梅花坑硯が3面見られる。恐らくこれ等の硯は、諸山の石が皆尽きた時代の貢硯であったのであろう。臨兆石も図で見る限り、祈門石であり、紫金石も現在、端渓硯の贋物としてよく売られている石である。又雘村石(かくそんせき)は現在澄泥硯として販売されている硯石とのことである。この様な石でも西清硯譜に載れば稀代の宝物である。
 端渓硯の石紋については眼の記載が多く、次いで蕉葉白である。蕉葉白硯という名前に使用されているものも見られる。 青花という表現はたった1面に認められただけである。 魚脳凍、冰紋の記載は見つからなかった。
 刻された銘のほとんどは乾隆帝が書いた文章である。この文章の紹介、解説に割かれている。
他に歴史上有名な人の銘の入った硯は240面中、数える程しかない。最も有名な銘の入った硯は、何といっていっても蘇軾硯であろう。
西清硯譜巻八に
宋蘇軾石渠硯 翠雲館  宋端石
宋蘇軾結縄硯 敬勝斎  宋老坑端石
宋蘇軾東井硯 咸福宮  宋坑水巌
宋蘇軾端石硯 玉玲瓏館 宋水巌端石
宋蘇軾従星硯 景福宮  宋端渓梅花坑
宋蘇軾龍珠硯      宋坑端石
以上六面が見られる。宋端石は宋代の端石と考えられるが、宋坑端石は宋代の宋坑の石と考えていいのだろうか。宋代、未だ水巌は開採されていないにも関わらず、宋坑水巌としているのはなぜだろうか。宋代の硯の名称に関し、全く統一性が無いという事は、乾隆帝が硯坑に関して注意を全く払っていなかったのかもしれない。しかし『四庫全書』の監修の総責任者、紀昀、字は暁嵐(1724~1805年)が大西洞を知らないはずはないのである。彼には硯癖があり、彼が集めた硯九十九面は、紀昀が没する一年前に拓本に収められて、後世、民国5年(1916年)『閲微草堂硯譜』として覆刊されている。
乾隆帝が西清硯譜を編纂させた時代以前、乾隆17年、呉縄年が肇慶知府となり拱逢に採石し、22年『端渓硯志』三巻を印行、「端渓硯坑開採図記」と「水巌大西洞硯石説」よりなり、「図記」に水巌洞内の地勢や採石の具体的な記述が明らかにされた。
呉縄年の文を直接見ることは出来ないが、後世、嘉慶25年(1820年)に成った李兆洛の『端渓硯坑記』の一及び二には、呉縄年の文をそのまま引用しているとの事である。この文の二をを見るに、
「端渓硯石は宋以前に開きし所の諸坑は、今巳に石無し。間々之有るも、石色は紅紫にして発墨せず、取るべき者無し。唯だ水巌を老坑となす。凡そ四洞あり。其の小西洞及び正洞は巳に採るべきもの無く、而して東洞の石も亦復粗燥なり。故に今の水巌石はただ大西洞より出づる者のみ佳なり」としている。
四庫全書の編纂は乾隆38年(1773年)に開始され乾隆47年(1782年)に完成されている。4部、44類、3503種、36000冊、230万ページ、約10億字、正式に登録した文人学者400人、筆写人員4000人余と言う膨大な全書で、欽定西清硯譜は子部、芸術譜録内に収められている。乾隆43年(1778年)全24巻を干敏中等が奉勅撰とある。
『欽定西清硯譜』一覧表を作ったので、これを参考にして欲しい。

乾隆帝の治世は60年の長きにわたるが、この間水岩は記録に見えるものは、4回しか開かれていない。乾隆17年呉縄年の開坑のほかは、この四庫全書編纂中に3回集中していることは興味のある事実である。
乾隆42年(1777年)両広総督景素、三千余金を用いて大西洞に採石
乾隆45年(1780年)孫嘉楽開採
乾隆47年(1782年)鄭源璹水帰洞に採石、遊魚洲に至る
この様に、この時代、記録によれば、既に大西洞坑よりの石が主に採石されていたはずなのだが、不思議なことに、『西清硯譜』には、この大西洞という坑名は見られない。その他小西洞、正洞、東洞の記載も無い。
呉縄年は下巌の延長上の坑を老坑と呼んでいたと考えられる。万暦以後を水岩と呼ぶに至ったと考えるのが妥当に思える。『西清硯譜』の記述が、下巌、老坑、水巌の表記にのみ止まっていることは、呉縄年の四洞の名称はまだ官の認めるところでなかった名称と考えて良い。
あと一つ、特記すべきことは、西清硯譜所載の硯が、例えば宝物庫のような場所、一ヶ所に収蔵されていたわけではないようだ。翠雲館、敬勝斎、咸福宮等の宮殿に別々に保管されていたと考えられる。これは西清硯譜所載の硯の一部が外部に流失し、一部が我が国に舶載された事と関係が有りそうな事実である。
嘉慶以後の開坑の歴史と諸説の成り立ちを辿って見よう
嘉慶元年(1796年)肇慶知府廣玉11月29日より開採翌年2月26日封坑、大西洞石六千余塊、小西洞石約千塊を得る
嘉慶6年(1801年)地譜楊有源開採
嘉慶19年(1814年)計南『端渓硯石考』、『石陰硯談』、『墨余贅沢稿』印行
嘉慶25年(1820年)李兆洛硯坑を訪ね滞留2年この間に『端渓硯坑記』成る
道光8年(1828年)冬県丞陳銓開採
道光9年(1829年)何傅瑶『宝硯堂硯弁』の序文に黄培芳(付硯巌内外図)識文
道光10年(1830年)何傅瑶『宝硯堂硯弁』初版印行
道光13年(1833年)冬開坑翌年春閉坑
道光14年(1834年)呉蘭修『端渓硯史』三巻成る

 何傅瑶、字は石卿、その斎を「宝硯堂」と称した。父の何碧山は硯の弁識に名高く、父の口授を受けて、家業を継ぎ、その精識を『宝硯堂硯弁』一巻に集大成させた。本書の特徴は何と言っても、水岩を大西洞、正洞、小西洞、東洞四洞に分けこれに近似の雑坑31坑を配して、石質、特に石性を比較分析して、各洞及び雑坑との異同に付いて論じていることにある。
 何傅瑶は水巌四洞の硯石層を五層に分けている。頂石、第二層、第三層を上下に分かち、上層を腰石、下層を脚底と言い、第五層を底板とし、頂石、底板は硯材にならないとしていることから、先人の三層説と同じである。何傅瑶が石性分析の基準としたのは、硯石に顕れる各種の斑紋の質と色とであった。
斑紋の質に関しては淵渾の気、浮動の気、渾融の気、光潤の気などがあり、斑紋の優劣はこれ等「気」の充実の程度に応じるものとされる。斑紋の色を表す内容には、精彩の色、鮮嫩の色、純粋の色、細賦の色などが挙げられる。実際硯を見た事がない者にとって、特に大西洞硯に接したことの無い者に取っては難解の一語に尽きる。その形容詞は、まさに白髪三千丈の世界である。
青花に関しては大西洞第三層は浮動の気と精彩の色を兼ね備えた絶品とし、正洞の焦葉白は光潤の気はあるが、鮮嫩の色に欠けるので大西洞に劣るとされる。
魚脳凍に関しては渾融の気や純粋の色が優劣の基準となり、淵渾の気は天青を、細賦の色は馬尾紋を品評するのに用いられている。
この書に初めて麻子坑の名が現れ、大西洞に似ると紹介されている。
 この文はほとんど全文が呉蘭修の『端渓硯史』に引用されている。
『端渓硯史』に関しては別稿を設けたのでそちらを参照して欲しい。
この二人の書は清代の水岩、特に大西洞を理解する上で欠かせない教科書的な資料である。しかし現代、相浦紫瑞著の『図説端渓硯』及び劉演良著廣瀬保雄訳『新説端渓硯』に於いて、これ等二者の説の三層五層説は否定され、または記述が無く。四洞に関しても相浦紫瑞は大西洞以外の洞の硯を、鑑定する根拠が無いとして、唯、本坑と傍坑とのみ著わしている等、実際に坑道の中に入った者の意見は、清代の説とだいぶ異なってしまったようだ。このことに関しても別稿で考察してみたい。

清末民初の混乱と我が国の第一次硯ブーム

 道光13年(1833年)開坑、翌年閉坑
 道光14年(1834年)呉蘭修の『端渓硯史』三巻成る
 いずれにしても呉蘭修の時代までがどうにか清朝の安定期であった。しかしこの頃既に西欧列強は中国の市場を獲得すべく、胎動を始めていた。特にイギリスは、インドで栽培されたアヘンを中国に持ち込み、莫大な利益を挙げ、中国の銀がイギリスに持ち去られることにより、物価が高騰して、人民の生活が窮乏して来た。嘉慶元年アヘン輸入の禁止したが、密輸は止まらず、道光18年(1838年)林則徐を欽差大臣に任じ、広東に派遣しアヘン密輸の取り締まりをさせた。
 この頃から中国は収拾の付かない混乱状態に陥り、国土は西欧列強の植民地の草刈場と化していった。
ここで清末民初に、硯に関係する、歴史上有名な数人の一生を歴史の流れに当てはめて見ると、我が国に第一次硯ブームがどのような状況で起こったかが良く分かる。
その一人が呉昌碩であり詩、書、画、篆刻ともに精通し『四絶』と称賛され中国近代で最も優れた芸術家である。
次が孫文。中華民国の初代大総統。革命を起こすべく何回も武装蜂起をするが果たせず、日本に亡命する。日本では、犬飼毅、宮崎滔天、頭山満等の資金援助を受ける。犬養毅は洗硯会を通じて坂東貫山とも知り合いの仲だったようで、貫山から坳雲硯を購入したいが、と相談を受けた時、家を売り払って買ったらどうだと答えた話は有名である。貫山は大正初期、上海に滞在し、恐らく犬飼毅等の斡旋で呉昌碩にも会っている。李鴻章の家に招かれたのも、この人間関係があったからであろう。この時李鴻章の息子より南唐官硯を購入している。
硯の様な美術工芸品は平和な時には、家に蓄えられて動くことは無い。しかし世が乱れると、とたんに商品として市場にでて来る。このような状況でなければ博物館級の硯は日本に舶載されることは無かったであろう。
 道光20年(1840年)アヘン戦争勃発
 道光22年(1842年)南京条約  この戦争で清朝が敗北し西欧列強と不平等条約を締結させられたことは我が国にも伝わり、攘夷思想が強くなる。以後の中国と我が国の歴史を年順を追って記述してみよう。
 道光24年(1844年)呉昌碩生まれる
咸豊元年(1851年)太平天国の乱始まる
  この乱で、呉昌碩は妹と弟を飢えで失う。婚約者も故郷で失う
 咸豊3年(1853年)ペリー浦賀に来航
 咸豊4年(1854年)西太后後宮に入る
 咸豊6年(1856年)アロー戦争(第二次アヘン戦争)始まる
西太后咸豊帝唯一の皇子、後の同治帝、を生む
 咸豊8年(1858年)日米修好通商条約調印
 咸豊9年(1859年)安政の大獄
 咸豊10年(1860年)フランス軍、北京の円明園で略奪、英国は円明園を焼き払う。
北京条約 桜田門外の変
 咸豊11年(1861年)西太后辛酉政変で権力を掌握、同治帝を即位させる
 同治2年(1863年)下関戦争、薩長戦争、池田屋騒動
 同治3年(1864年)洪秀全自殺、太平天国の乱収まる。禁門の変
 同治5年(1866年)孫文生まれる、薩長同盟成る
 同治6年(1867年)大政奉還
 同治7年(1868年)明治維新
 光緒元年(1875年)西太后の妹の産んだ光緒帝を即位さす
 光緒9年(1883年)呉昌碩39歳、沈石友(沈汝瑾)と知り合い、以後彼の集めた硯に銘を入れた。石友没後、これ等が硯譜に組まれ『沈氏硯林』として刊行
 光緒10年(1884年)西太后張之洞を両広総督に任ず
 光緒13年(1887年)呉昌碩44歳、上海移住
 光緒14年(1888年)張之洞大西洞に開採、張坑と呼ばれる
この開坑は呉蘭修時代の開坑から55年経過している。この時採取された硯が3面亀阜斎蔵硯録に見ることが出来る。
亀阜斎蔵硯録に間しては別稿参照して下さい。
 光緒20年(1894年)日清戦争(明治27年)、呉昌碩日清戦争に参加、県令になるが1ヶ月で退職、翌年下関条約締結、中国側は李鴻章が全権大使、以後西欧列強の中国侵略が激しくなる。
 光緒21年(1895年)(明治28年)三国干渉
 光緒25年(1899年)義和団の乱起こる。孫文武装蜂起に失敗、日本に逃れる。
 光緒26年(1900年)連合軍北京入場。映画「北京の55日」。北京は連合軍によって1年間占領下に置かれ、この間連合軍による略奪が横行し、王侯貴族の邸宅や頤和園での略奪、放火、破壊で多くの文化財が失われた。奪った宝物を換金する泥棒市が立つほどであった。
 光緒30年(1904年)(明治37年)日露戦争
 光緒31年(1905年)孫文ヨーロッパより帰国、途上スエズ運河上で日本の勝利を聞く。アラブ人が日本の勝利を喜んでいる姿を見て、有色人種の意識向上の現実を知る。同じ年、宮崎滔天等の援助で東京に中国同盟会を結成。ここで留学中の蒋介石と会う。
 光緒34年(1908年)光緒帝毒殺さる。翌日西太后没(享年72才)
 宣統2年(1910年)日韓併合
 宣統3年(1909年)辛亥革命
 宣統4年(1912年1月1日)孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に誕生
     (1912年1月29日)宣統帝退位。同年2月23日孫文は辞表を提出、袁世凱が2代目大総統に就任す。
 明治45年(1912年7月)明治天皇崩御、大正天皇践祚
まさに激動、混乱の清末と、明治時代、日本の躍進の時代が終わった。
 民国3年(1914年)呉昌碩70才上海に移住
 民国4年(1915年)呉昌碩71才、上海書画協会会長となる。
      書画個展を六三園、翦淞園で開く
当時上海には長崎出身の白石六三郎が「六三園」という料亭を営み。ここには犬飼木
堂や孫文等政治家が集ったという。白石六三郎は呉昌碩との交友が深く、しばしば呉昌碩を宴席に招き、日本の書家や政治家に作品を紹介していた。日本に呉昌石の作品が多く見られるのは、ここで多くの日本人が呉昌石に作品を依頼したためと言われている。
大正初期に上海に渡った坂東貫山も、この席に招かれ、呉昌碩や王一亭とも交わるようになった。当時貫山は硯の鬼集家として、この地でも有名に成っていた。あるとき、蘇州の沈氏と言う名家に一面の名硯が秘蔵されているのを聞いた。その後、この硯を見る機会に恵まれた。稀代の名硯を見てこの硯を譲って欲しいと申し入れたが、このころは沈氏も裕福だったので、あっさり断られた。しかしその後沈氏がアヘン中毒治療の為フランスの病院に入院する費用を得るため、この硯を手放すことにして、貫山に話が回って来た。しかしこの硯は当時の値段でも1万円注)だった。この沈氏が沈石友かどうかはっきりしない。
 注)企業物価指数で大正6年と平成25年を較べてみると
    大正6年 0.951 平成25年  711.1   711.1÷0.951=747.7
    即ち当時1万円と言うことは現在747万円位だったことが推測される。
   又消費者物価指数から換算すると、
    平成25年は1734.8 戦前は昭和9年~11年平均=1(これ以前の値が無い)
    当時の1万円は、現在約1734万8千円以上はしたであろう。
 貫山は一時帰国し、犬養木堂(毅)に相談したところ、「君の家を売ったらどうかね」と言われて家を処分、この硯を購入した。この硯が、かの「坳雲硯」である。又あるとき、李鴻章の家に招かれた際、李鴻章の息子より「南唐官研」を買わないかと持ちかけられ、即座に購入した。この硯には、欧陽修の在銘が有り、民初に刊行された『広倉研録』の巻頭を飾った名硯中の名硯であった。貫山は昭和12年中国の世情騒然となった為、帰国したが、この間約200面を集めたと言われる。その後東京中野に定住するようになった。しかし空襲が激しくなる中で、主な名硯は九州に疎開させたが、残りは空襲で全て焼失させてしまった。終戦後昭和26年東京国立博物館で貫山主導で全国より140面の名硯を集めて、古名硯展が開催された。昭和30年代日本美術工芸誌に自伝『貫山夜話』を発表し好評を博した。昭和40年没享年80歳だった。
中国では清末民初にかけて、多くの硯譜が刊行された。中でも有名なのは『沈氏研林』であろう。多くの硯に呉昌碩の銘が入っている。死後157面の拓が作られ、『沈氏研林』として刊行された。しかしこれらすべての硯は白沙村壮主、橋本関雪の有となり我が国に舶載された。橋本関雪が昭和25年没すると、全てが好事家の手に渡り散逸した。この硯の1面が台湾の富豪林粕寿の手に入り、彼の死後、集めた硯全てが故宮博物院に寄贈され、『蘭千山館名硯目録』として刊行された。
 このほか『広倉研録』、『閲微草堂硯譜』等がある。この硯譜の中の一部の硯がわが国に舶載された。特に広倉研録に乗った、洮河緑石硯は有名である。『欽定西清硯譜』所載の硯数面も舶載されていると聞く。
中国では、1911年の辛亥革命により清王朝は滅亡したが、最後の皇帝である宣統帝溥儀は1912年の退位後も、清室優待条件により紫禁城に居住し続け、太監(宦官)も同条件により新規採用者の募集を停止したのみであった。その後、1923年に溥儀は、家庭教師であったイギリス人レジナルド・ジョンストンなどの影響を受け、宦官の腐敗への不満から、宦官の多くを追放しようと試み、宦官を100人程度にまで減らした。しかし、溥儀の食事の準備ができなくなるなど、逆に宮廷の運営が滞ってしまい、結局、1ヶ月足らずで宦官の追放を撤回することを余儀なくされた。その翌年、1924年の馮玉祥のクーデターで宣統帝とともに宦官も紫禁城から追放され、清朝の歴史の幕を閉じることとなった。このとき追放されたのは、宦官2000人と女官200人と伝えられる。(以上インターネットより)
日本に伝わった西清硯譜所載の硯は、この時宦官によって各宮殿に保管されていた硯が持ち出されのであろう。ことによると、これ等西清硯譜所載の硯は、日常に皇帝や宦官が使用していたもので、いわゆる、王朝の宝物ではなく、皇帝や皇族の日常品として、王宮を出る時宦官が持ち出してもなんら問題は無かった品なのかも知れない。これ等が市場に出て、日本の商社が手にいれ、日本に伝わったのであろう。
大正時代の洗硯会には伊藤博文、犬飼木堂(毅)などの政治家を初め下村為山、松方正作、岡山高陰、阪正臣、小野鐘山、後藤朝太郎、坂東貫山等各界の名士が集まる会で、庶民が参加できるような会ではなかった。即ち第一次硯ブームは、これ等政治家や書家の一部で、硯に興味を持つ、極く限られた人が参加したに過ぎない。従ってこの頃集められた硯のほとんどは、現在博物館や記念館、一部のコレクターが所持していて、我々が近くで見ることすら出来ない硯もある。江戸時代幾人かの硯癖のあった人が居たらしい。『和漢硯譜』に載った漢硯は、恐らく江戸時代清の商人によって持ち込まれた品で有ろう。しかし、江戸時代、硯を集めた大名の名を聞いたことが無い。これ等の硯も、ガラス越しに見られればいいほうで、ほとんど見ることが出来ない。写真も見た事がない。明治から大正時代にかけて、我が国に舶載された良硯はそれ程多くは無かったと考えられる。よって戦後の混乱期沈氏研林所載の硯が市場に流れ出したのは例外で、実際は極くわずかだったと考えて良い。即ち一般庶民は、この頃、端渓硯を見たことのある人は極く少なかった。ましてや、大西洞硯など、雲の上の硯で、まさに神話の世界の硯だったのであろう。

水岩再開以後

1972年、80年以上閉ざされていた水岩の扉が開かれた。天の岩戸が再び開かれた。
1980年には旧坑口の南に大西洞に直結する坑道が開かれ、産出量も飛躍的に増大した。
 日本にも水岩の再開以後、大量の水岩硯が輸入され、水岩ブームが起こり、多くの著作が出版された。 1980年代の本は写真の質が悪かったが、年を追う毎に写真の質が良くなっていった。 1970年以前にも硯に付いて発刊された硯譜や著作を見るが、実物を見たことの無い者にとっては全く理解出来ない領域の文にしか見えなかった。
以下、私が1990年以降買い集めた硯の解説書、雑誌、写真集である。どの本にも硯の写真が載せられている。もちろん写真の質の良否はある。現代この分野の解説をする時、写真の質が悪ければ、相手に自分の考えを伝えることは出来ない。 写真が無い時代、硯を忠実に伝えようとした書籍がある。これは清朝、乾隆帝によって編纂された『欽定西清硯譜』である。忠実な色付きの写生によって作られたもので、その複製が発売されているらしいのだが、見ることは出来ない。幸いモノクロであるがそのコピー版を手に入れることが出来た。
硯は実際手に取って見なければ解らない。又手に取って、指で弾いた位で解るはずはない。古くは水の中に沈めて観察していたが、現代には写真という武器があり、うまく撮影出来れば多くの人に、多くの情報を提供出来る。清末民初、中国ではいくつかの有名な硯譜が作られたが、多くは硯の拓を取って編集したもので、私の興味を引く書籍ではなかった。
購入した書籍の発刊の時期を年代順に並べて見た。偶然なのか、全て、水岩再開以後発刊されたものばかりである。いくら古本屋街を歩き回っても、水岩再開以前に発刊された本を見つけることが出来なかったのである。
1『古硯』                S50年(1975)
2『筆墨硯紙』植村和堂著         S52年(1977)
3『硯の知識と鑑賞』窪田一郎著      S52年(1977)
4『訳補端渓硯史』呉蘭修著、石川舜台訳  S54年(1979)
5『古名硯鑑賞』北畠五鼎他        S55年(1980)
6『硯の基本知識』北畠五鼎他       S55年(1980)
7『中国硯材集成』北畠五鼎他       S56年(1981)
8『文房清玩』宇野雪村著         S61年(1986)
9『西清硯譜』海賊版、上海書房         (1987)
10『訳注端渓硯譜七種』井上研山編 中谷裕亮訳  H2年(1990)
11『百華硯譜』相浦紫瑞          H4年(1992)
12『龜阜齋蔵硯録』            H4年(1992)
13『蘭千山館名硯目録』故宮博物院         (1992)
14『図説端渓硯』相浦紫瑞         H4年(1992)
15『図説歙州硯』竹之内幽水        H6年(1994)
16『新説端渓硯』劉演良著 廣瀬保雄訳   H6年(1994)
17『東京精華硯譜』楠(佐藤)文雄 35巻~173巻 H7年~H21年(2009)
雑誌で硯に付いて特集が組まれた本は
18『墨スペッシャル11 文房四宝の全て』     H4年(1992)
19『墨』112号硯を知る              H7年(1995)
20『季刊墨スペッシャル26』文房四宝の楽しみ   H8年(1996)
21『墨 121号』文房四宝礼賛           H8年(1996)

これ等の本は神田の書店街を歩き回って集めたものであるが、その全ては1975年以降、すなわち水岩の再開以後発刊されたものである。水岩の開坑がいかに日本国内でも反響が大きかったかを示している。
再開以前、日本では端渓を知る人は非常に少なかったと考えられる。端渓という言葉は良硯の代名詞だったが、恐らくほとんどの人が端渓硯を見たことが無かったと考えられる。伝説上の硯だったのである。
再開以前の1970年頃、国内に大量の「模造紫色硯」が流通したとのことである。大量の模造硯は一般の書道具を扱う店から流れることは無い。山と詰まれた同じ型の硯を見れば、誰でも贋物と気が付く。ほとんどが骨董店や質屋から出たものであろう。この頃、一般の、骨董趣味の旦那さん方は端渓硯など見たことがなかったのである。しかし伝説だけは聞いていた。なぜなら再開以前日本に持ち込まれた端渓硯は、いわゆる文化財級の古硯であったからである。骨董商も質屋も端渓硯など見たこともなかったに違いない。彼等も騙されたのである。「模造紫色硯」を稀代の掘り出し物と思って購入した人が多かったと思われる。私すら始めてこの硯を見たときは、唐硯で国宝級と思った程で、墨を下ろすことすら憚られた。杜甫や李白の名前が刻された硯であった。何も知らなければこんな世界である。
清朝滅亡前夜中国の混乱期、日本では明治末より大正にかけての時期、多くの古硯が舶載された。坂東貫山が購入したという「南唐官硯」(歙州硯、広倉研録所載、硯背に北宋代の欧陽脩の銘がある)は故宮にあっても不思議ではない硯である。 実際に西清硯譜所載の硯数面も我が国で見ることが出来る。「沈氏研林」所載の硯は、全て、白沙村壮主、橋本関雪が購入して日本に伝わった。黄任銘で呉門顧二娘刻の硯は、この時日本に舶載されたが、再び台湾の富豪の手に落ち、今は故宮博物院に保存されている。
これが我が国における、第一次硯ブームであった。その後、中国の文化大革命の時期、破壊の難を逃れた多くの古硯が日本に持ち込まれたとの話を耳にするが、実際にどのような硯があったかはっきりしない。その後中国では古硯の国外持ち出しを禁止したので、以後文化財級の古硯は入って来ている様子はない。水岩再開を機にこれだけ多くの著作が発売されたことを見ても、我が国の期待の大きさを知ることが出来る。
しかし再開後の経過を見ていると、我が国には水岩や大西洞硯が氾濫した。これを新硯とか、新端渓とか、新水岩と呼ばれる硯である。中には大西洞を僭称している硯が多数出回った。 その硯の質は期待した程のものではなかった。青花はほとんど見られず、やたらと冰紋(私はこの紋を冰紋と呼びたくない。ほとんどが金線である)が目立ち、乾隆期の大西洞伝説とは比ぶべくもない。これが水岩かと疑いたくなるような代物であった。
1990年前後、端渓への多くのツアーが組まれ、参加した人の手記が『墨』と言う雑誌に載ることがあった。中には水岩坑の奥、大西洞までの入坑を許された人も居て、その貴重な写真が公表されたこともあった。
1992年発刊の『墨』スペシャル11の刊末に丑丸雄二氏の端渓硯の現況と題する小文が載せられている。この頃既に我が国でも、公然と「端渓硯には贋物が多い」「大西洞の硯材は尽きた」などと言われるようになっていた。 丑丸氏は現地に赴いて調査した結果、端渓硯の採石状況は激変しているとのことであった。水岩については、現在大西洞、水帰洞の良質な硯材は、その頃既に尽き、最近では大西洞手前の南壁に新らたな坑道が掘られ、ここから採取されているが、大西洞に匹敵する硯材は極めて少ないとの事である。更に宋坑を除く有名山坑の坑道でも硯材が尽き、多くは閉坑しているとの事であった。
1996年発刊の『墨』スペシャル26、文房四宝の楽しみには、端渓諸坑の状況がカラー写真で紹介されている。1993年11月20日撮影と日付の入った大西洞内部の写真も見られる。大西洞の広さはおおよそ10坪としている。この時大西洞では、採石されている様子はなく、水が溜まっている。
これに対し1995年、「龍鳳」が発行したパンフレットで、この大西洞の硯石は尽きたとの風潮を打ち消すべく、次のような一文を載せた。
肇慶市の「端渓名硯廠」は中国で唯一の国営工場として、政府の管理のもとに老坑水岩の品質保持につとめている。ここの廠長が、中国工芸美術大師(人間国宝)の黎鏗氏である。「龍鳳」は「端渓名硯廠」の日本総代理店で名硯廠で作られる硯の販売を行っている。
名硯廠に於ける製品の流通は、老坑洞内の硯材採掘→鉱区老坑専用倉庫→工場内老坑専用倉庫→製硯(これが国営硯工場)→製品倉庫→販売という経路で運営されている
製品(原石ではない)は品質により甲級、乙級、丙級に分けられ、甲級は国立博物館、国際市場への輸出、又は国家要人出国礼品用に当てられ、乙、丙級が国内民間市場に販売される。
人間国宝の黎鏗廠長は甲級の硯石はのみに刻を加えていたようだ。しかし甲級の硯になる良質の原石は極くわずかだった。このほとんどが民間業者に販売されていて、名硯廠内での製硯は行われていなかったのであろう。確かに黎鏗師の硯は石質でも刻でも他の水岩硯と比べ雲泥の差があった。まさに清朝の呉門顧二娘にも匹敵する作硯家である。日本国内には8面が舶載されただけと聞く。
更に、以下の文で
「1994年12月8日、日本の駐広州総領事館の小森総領事は大西洞老坑の現地を参観されました。その時国営の端渓名硯廠の黎鏗廠長がその場で特別に大西洞老坑から採取した原石を呈しました」
ここでは特別にという表現に注意。1994年12月頃既に、普段、ここ、大西洞から採取されてはいなかったのである。
実は、この時に採取した原石が別にもう1面あった。その一面が原石の形態を保ったままの板硯状に作られ、黎鏗氏の銘を入れて提示してあった。銘に曰く。
「甲戌冬階(?)薛立亜先生張恵敏女士遊端渓老坑大西洞得佳石留念此石質地細賦幼嫩滋石品名貴為諸硯石之珍品也。 中国工芸美術大師 黎鏗銘」
この甲戌年は1994年であり、小森総領事が訪れた年である。この時同伴したのが薛立亜先生で、張恵敏女士は通訳だったと考えられる。
この原石は非売品とのことだったが、黎鏗師の硯を購入することを条件に、どうにか手に入れることが出来た。この頃この店で販売されているどの大西洞硯よりも、清代の大西洞に近い色彩の原石であった。この石は端渓水岩の歴史では、ことによると、清代の大西洞の延長上で採取された石としては、最後の石になるかも知れない。黎鏗師の硯と記念の大西洞の硯石の写真もご覧ください。(写真12、13、14、15)

水岩坑の終焉

最近インターネットのホームページで多くの情報が得られるようになった。この中で「みなせ筆本舗」の新資料「老坑採掘再開から閉鎖まで」には肇慶市のある硯廠との硯輸入に関する生々しい交渉のやり取りが記されている。この「みなせ」は肇慶市地区全坑閉鎖後も、まだ閉鎖の理由は過剰在庫が原因としている。いくつかの情報を整理すると
1995年頃、端渓各坑のうち「老坑」と「坑仔岩坑」の二坑は採掘、原石の品質検査、原石販売、原石価格共々国家の管理化にあった。しかしこの頃「老坑、坑仔岩坑原石」を硯に仕上げる国営硯工場は既に閉鎖されていた。それまで原石の管理、保管は総て国営倉庫が取り仕切っていたが、原石を発売した先の民間硯工場の力に押され国営工場は何とか生産を続けていた程度だった。
此れを裏付ける記事が1995年2月発刊の『墨』112号、特集、「硯を知る」に見ることが出来る。「中国硯の二大産地端渓硯と歙州硯のふるさとを訪れる旅」と称する文である。端渓では肇慶市の大徳利端硯廠が取材協力をしてくれたとのことだが、文の内容から、取材は本誌記者ではなく、硯の買い付けという言葉を使っているので、輸入業者だったと思はれる。 まず最初に「端渓名硯廠」を訪れ廠長の黎鏗氏に会っている。大量の硯材の前に立つ黎鏗氏の写真が見られる。これがたった10坪位の広さから採取した大西洞から採取された石とは考えられない。やはり麻子坑や宋坑の石もこの倉庫で管理していたらしい。この写真を見れば硯材は未だ健在と思うのは当然である。
しかし、ここ名硯廠の作硯作業場には、一部男性が居るが、ほとんどが女性である。ここは国営工場では給料が安いため、有能な職人は、ほとんどが独立して自営化してしまっていて、作られている硯は、全てお土産用の宋坑硯だったとのことだ。それに引き換え白石黄崗村には、硯の販売店が林立し、中には4~5階建ての硯御殿が見られるとの事で、この取材班はこの中の一つ、大徳利端硯廠を訪れた。国営の名硯廠とは比較にならない量と品種が展示してあるとのことであった。大きな工場では、硯の値段は国内価格、台湾と他華僑用価格があり、日本人に対しては最も高い値段を付けてくるとのことだ。個人経営の店も多いらしく、中には大工場物に引けをとらない優秀な技術を持つ者も居るらしく、ここでは大工場の価格より安く手に入るらしい。
翌日一行は黎鏗氏の案内で水岩坑を訪問する。水岩坑周辺の様子は『図説端渓硯』の記述と同じである。この文の中に驚く記載があった。
「硯石は安山脈石層より採れる」
従来硯石は輝緑凝灰岩であるとされてきた。石集めの趣味のある者にとってこの説はどうにも納得できないことであった。『地学事典』を見ると現在輝緑凝灰岩とは、
「多少変質した塩基性火山噴出物の火砕岩、溶岩の集合物に対する呼び名で、厳密な意味の岩石名として用いられることはほとんどない。緑泥石、緑レン石、曹長石、方解石などの低変成鉱物が特徴的」と出ている。『新説端渓硯』では中国の地質調査結果の報告をそのまま引用して、硯石を泥質岩、又は泥質貢岩としている。貢岩は本来水成岩で海底に堆積した粘土が石化したものである。歙州硯の如く層状を呈さなくてはならない。硯石は粘土が変成作用により、水雲母又は絹雲母化したものである。硯石は泥質岩ないしは泥質頁岩であるという。これらの岩石はそれ程硬くはないはずである。なぜ坑道をもっと広げないのだろうかと言う疑問が先ず浮かぶ。
李兆洛の『端渓硯坑記』に興味ある文がいくつか見られる。
「坑洞の口は半山の下に在り。洞口より進みて右に転ずるところを摩胸石と為す.堅くして穿つべからず」
「石工に問う。何ぞ鑿作して広からしめざらんや。と云うに、此れは是、石骨にしてとるべからず。と。凡そ洞中の石の硯材に中る者は、外は皆石骨が是を包む。必ず其の脈絡を尋ね、曲折して、しかる後取るべし」
 この表現から、硯材の部分の外側は皆堅い石である事が推察される。砂岩や頁岩ではない。安山岩である可能性が高いのである。中国の地質調査では硯石層の上下の石質に関する記述が全く見られない。周囲の岩石は水成岩ではありえない。火山岩である。硯石層は坑道状に産する。
安山岩の中に粘土鉱物が形成される原因として熱水鉱床作用が考えられる。
マグマ起源の熱水溶液を真正熱水溶液と言うが、熱水はマグマ以外に、岩石中の孔隙水、毛管水、構造水が変成作用を受け熱水と成る。この熱水が周囲の岩石を風化させ粘土が生ずる。火成岩でも水成岩でも風化されると粘土となる。粘土は変成すると、多くは白雲母に変わる。
熱水によって運ばれたFe、Mg,Caイオンが雲母内で置換し様々な色を作る。 すなわち坑道状で産する硯石は同じような形成過程で出来たものである。石紋の違いは、この間の圧や温度と関係し、変成の程度で、硯材としての価値も違ってくる。
早く言えば、斧柯山系で採取される坑道状に産する岩石は、同じような形成過程を経た石である以上、似たような石が出来ても不思議はないということで、山坑と呼ばれている坑道から水岩に似た石が出てもなんら不思議はない。これが私の持論である。
この論の前では水岩神話はない。大西洞を除いて、この洞以外で採れた硯石は山坑の良質なものと鑑別は困難であろうと考えている。ただ現在、大西洞のみが神話である。
以下の文はこの考えに沿って作った私だけの妄想位に考えていただければ幸いです。自分だけの説を持つことはいかに楽しいことか、分かっていただける人があるかも知れません。清代に著わされた諸硯説はこの様にして出来たものである。大西洞の硯なくして作られることはなかたのである。
    閑話休題
1996年8月発行の『墨』121号、20周年記念大徳集、文房四宝礼讃に我ら古硯鑑定団という企画があった。鑑定団10名の他特別参加、オブザーバーとして廣瀬保雄氏と丑丸雄二氏も見られる。十名のメンバーには私が既に訪れたことのある店の店主が何人かいる。10面の硯に対し意見を交わし、硯名、硯坑の別、時代、値段を決めていくという企画である。10面の内老坑と鑑定されたのは4面である。1面の巨大な明坑水岩は私も浅草のある店で見せてもらって、実際触れさせてもらったものである。恐れ多く値段も聞けなかった代物であった。もちろんこの時、これが水岩であるとは思っていなかった。ここに800万という値段をつけられて、さもあらん、とうなずく代物である。その他の3面は清代でありながら、総て老坑と呼んでいる。1面裏面に道光銘の入った硯に対して、銘は歴史上有名な人の銘ではないから、この硯を手に入れた人が自ら彫った銘と断じ、更に道光年間2回開坑している、後の13年開坑としながら、どうして道光の後の開坑の石と鑑定できるのか、以前に開坑した石と、何が違うのか? あとで調べると、道光8年の開坑では硯石が採れなかった様だ。是を知っていて、どうして大西洞とは言わず老坑と主張するのだろうか。何かこの業界には決まりがあるのだろうか。この硯にはさすが250万の値段をつけている。同じく道光代の老坑が50万。道光年間に小西洞ででも採石されたという記録でもあるのだろうか。あと一面は麻子坑か老坑か意見が分かれたが、最終的に老坑で50万と鑑定している。ハネ(石声)をしきりに口にする鑑定家がいるようだ。石は厚さによって音が異なる、指で弾いたくらいで石質が分かるはずがない。素人をばかにするのもいい加減にして欲しい。
水岩の歴史を知るものなら、清代の老坑は本来、大西洞と呼ぶか、小西洞と呼ぶかどちらかにすべきである。2面の50万の老坑は『図説端渓硯』で言うところの、傍坑の石という意味なのであろうか。なぜこのような歴史的な分類を無視した鑑定をおこなうのだろうか。なぜ大西洞と言わずに水岩というのであろうか。
これが水岩神話なのであろう。水岩神話無くして黄岡村民は存在しえない。骨董屋も存在し得ない。水岩(下岩)は北宋末には既に採掘不能な状態になったはずである。それから300年この坑は開かれることはなかった。しかし黄岡村の住民は、下岩の石質は最高に良い。しかし採取が難しい、だから高価である、又この坑の石にはきれいな眼が出る等々、神話は恐らくこのようにして形成されたものなのであろう。この神話のお陰で、黄岡村500余家の住民は、水岩が再開されるまでの300年間生き残ることが出来た。だが清末の動乱でこの村に3軒しか硯を作る住民がなくなった。しかし水岩神話は人々の記憶に生き残っていた。水岩の再開で黄岡村は復活して硯御殿まで出来た。水岩神話は恐らくこのようにして語り継がれて来た。
しかし二十世紀後半の水岩の再開は、この水岩神話をもろくも崩壊させてしまったようだ。
「みなせ」の記事では、1998年この国営工場(端渓名硯廠)と国家が認めた民間の硯工場に2坑(老坑、坑仔岩)の原石を供給していた「国営硯倉庫」の多くが閉鎖され、それ以降は比較的小さな国営倉庫のみが継続され、硯材を在庫して民間硯工場へ供給して来た。との事だが、「みなせ」がどのような業者と取引して来たのか記述は無い。
1999年老坑原石盗難騒ぎがあり、以後も坑仔岩での盗掘が相次ぎ、その被害は麻子坑、宋坑にも及んだという。
そして、2000年に入ると中国政府は水岩原石の在庫が増えたとの理由で、突然採掘を中止した。 しかし、其の後も有名坑での盗掘が相次いだということは、原石が豊富にあると言うことではなく、逆に、この頃既に、民間業者に提供される、良質な硯材が不足していたことの証である。
2003年には総ての国営工場及び国営倉庫の土地が不動産業者に払い下げられ、一部の倉庫に少しだけ石材を置くことが許された。この時点で国営倉庫に保管されていた総ての老坑、坑仔岩坑の石材が売却された。
更に2007年頃より水岩、麻子坑、坑仔岩に止まらず、肇慶市周辺の総ての坑の閉鎖を決めたようである。 端渓の河口にダムを設け、水岩坑を完全に水没化させ、坑仔岩、麻子坑の坑道を爆破して入坑不能にしたとも聞く。端渓は紫雲谷と名を変え、老坑採掘坑跡は「端石老坑洞遺跡」と名を変え、完全に観光地化したようである。 
2009年秋、2003年の売却を免れた国営倉庫の老坑、坑仔岩坑の硯材総てが売却されたという。
一体端渓で何が起こっているのか。これを正確に伝える書をまだ見ていない。 私の集めた本を見ても、何も知ることは出来ない。
開坑に参加した劉演良は1989年『新説端渓硯』を発表し、1994年には廣瀬保雄氏がこの本の訳本を刊行した。この書は1972年水岩開坑時の状況を克明に述べているので、水岩の神話を知る上で必読の書である。従来の硯説には全く記載の無かった、硯石の地質学的、鉱物学的特性をも、中国政府の行った地質調査を基に述べられている。
しかしこの時の地質調査結果は一部が報告されているだけで、其の総てを見ることはまだ出来ないらしい。 中国政府は1980年代に行った地質調査や、鉱物に関する研究で、何か、新しく、歴史には記述されたことの無い、端渓硯の実体を知ったのではないだろうか。素人が見ても現在販売されている水岩と称する硯の質は、明らかに清代の石質とは違っている。「硯石に新旧なし」と言った人がいる。確かに硯石は、数億年前に地下深い所で形成されたもので、大陸移動に伴う地殻変動で上昇して、採取可能になったものである。ただ採取された時期が1000年前か、現代かの差でしかない。古硯か否かはただ採取された時代を言っているだけに過ぎない。水岩坑はただ一坑だけとしても、場所によって全く異質な石質を示す。採取された時期により、質の良い時代もある、悪い時代もある。これが水岩の実体である。 
大西洞の硯石は尽きたということは事実のようだ。しかし、これが水岩坑閉鎖の理由とは考えにくい。また新たな坑道を見つければ大西洞以上の硯石が出る可能性があるはずである。 もしあるとすれば、これはあくまでも仮定の話であり、私の妄想かも知れない。 
劉演良の文では、1980年大西洞にいたる別の坑道が完成し、排水には動力を使い、電灯も設置され、一回の開坑で大量の硯石が採取されるようになったとのことである。 毎年採掘され、大西洞より深部の水帰洞とも連がったと聞く。たった20年で300年分以上の硯石が採取されたと考えられる。嘉慶元年(1796年)の開坑では大西洞石六千余塊、小西洞石千塊を得る。との記録がある。 一塊1.5Kgと仮定して、総計3.5tに満たない。恐らく記録に残したくらいだから、最大の採取量だったのであろう。 劉演良に拠ると、1982年新坑道が新たに作られて以後、年間15tもの硯石が掘り出されている様だ。 過去1000年間で採取された水岩坑石の総量の数倍が、この10年間で採取されたことになる。 ここから考えられることは、ただ一つ、大西洞と水帰洞は繋がり、水帰洞は既に西江の河底より低くなっている。これ以上掘り進めると、どうなるか素人でも予測が付く。大規模な出水、すなわち深く掘り進めた結果断層にぶつかり、この断層が西江水底方向に続いているとすれば、もはや修復は望めない。排水ポンプをフル稼働させたところで西江の水を排除することは不可能である。 ことによると、2000年頃大西洞内で大規模な出水があり、西江の水が流れ込んで修復が不可能になったのかもしれない。事態を公開するわけにもいかない。 放置すれば、いたずらに贋物硯業者の跳梁で水岩の歴史的な品位を壊されかねない。もはや筆で字を書く時代ではなくなった。コンピューターを使えばいかような文字も使用出来る
端渓硯の歴史はこの辺で終了させても問題は無いだろう。まず国営の端渓名硯廠を閉鎖、硯石の全量処分、水岩坑の水没、麻子坑、坑仔岩坑道の爆破、肇慶市周辺の坑道の全面閉鎖、水岩坑を遺跡化。そして端渓硯を伝説化し、今度は清代の大西洞の神話化。
此れが中国政府の考えかも知れない。 とすれば、今後、西江の流れが変わらない限り、水岩の再開はないと考えた方がいい。水岩の歴史は間違いなく、ここで途絶え、水岩は遺跡化され、伝説化されていくであろう。端渓地区の本格的な地質調査で端渓硯形成の謎が解かれるかと考えていた。従来の説は総て水岩か否かの鑑定学に過ぎない。地質学的、鉱物学的に硯石を調べその特性を科学的な解明をして始めて硯石学といえる。政府はこの科学的究明を中止した現在、その望みは絶たれた。再び端渓硯伝説の始まりである。
硯材の在庫には限りがある、新たな硯材の供給が途絶えた今、端渓硯が見られるのはあと数年しかない。私が購入した1994年製、黎鏗銘の石と硯は、この時、端渓がこんな状態になると思っていた訳ではない。しかし、この石はまさに端渓伝説の最後を飾る大西洞神話の証に成る石になるかも知れない。